言葉季評
大学生の頃、私は年に数回、一人暮らしの祖母を訪ねていた。ある日、いつものようにアパートに行ったところ、先客がいた。それが二人組の若い外国人男性だったから驚いた。流暢(りゅうちょう)な日本語を話す彼らは、私と入れ替わるように、にこにこと会釈して去っていった。祖母も手を振って見送っている。
「あの人たち、誰?」
「ああ、お友だちだよ。ときどき遊びにきてくれてね、お茶を飲みながらお話するの」
だが、祖母と彼らの組み合わせは、茶飲み友だちというには違和感があった。たぶん、と私は思った。宣教師なんだろうな。その頃、二人組の外国人が盛んにそういう布教活動をしていたのだ。そのことを伝えるべきか迷ったけど、なんとなく口にできなかった。祖母の様子が、とても楽しそうだったからだ。明治生まれの彼女にとって、若い外国人男性と話すのは新鮮な体験に違いない。それに祖母も彼らの活動のことはわかっていたと思う。それでも、迷いなくお友だちと呼んでいた。おばあさんは淋(さび)しいのかな、とちらっと思ったけど、一人暮らしの老人の気持ちは大学生の自分には想像できなかった。
あれから四十数年。その間に…